松平信康を死に追い込んだ「頼れる家臣の大失態」 「酒井忠次」のまさかの行動、家康の反応は?

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清瀧寺信康廟(写真:suko /PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第27回は家康の子・松平信康の死の背景について解説する。
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一体、何がそうさせてしまったのだろうか。謎に包まれているのが、俗にいう「築山殿・信康事件」である。

天正7(1579)年8月4日、徳川家康は、嫡男にあたる岡崎城主の松平信康を追放。二俣城に幽閉している。同月29日には家康の正妻で信康の生母である築山殿を自害させ、さらに9月15日には、信康を自害させたという。家康は自分の妻と子を自害させたことになる。

当時、家康には信康以外に2人の男児がいた。だが、於万の方との間に生まれた次男の秀康はまだ6歳で、西郷局との間に生まれた3男の秀忠にいたっては、まだ乳児である。しかも次男の秀康については、家康はなぜか冷遇しており、4歳まで対面を果たしていない。

良好だった信康と家康の関係

乳児の死亡率をふまえれば、後継者はほぼ信康しかいない状況下で、家康が信康を死に追いやったとすれば、よほどのことがあったのだろう。

なにしろ、家康は武田勢との戦いにおいて、殿(しんがり)を務めた信康の勇猛ぶりに「あっぱれ見事な退却である」(『徳川実紀』)と感嘆したという記述も残っているくらいだ(前回記事「家康が溺愛「松平信康」21歳で迎えた壮絶な最期」参照)。

良好だった家康と信康を取り巻く状況を変えたのは何か。『三河物語』や『松平記』によると、信康の妻である徳姫が、父の信長にしたためた書状だったという。

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