一体、何がそうさせてしまったのだろうか。謎に包まれているのが、俗にいう「築山殿・信康事件」である。
天正7(1579)年8月4日、徳川家康は、嫡男にあたる岡崎城主の松平信康を追放。二俣城に幽閉している。同月29日には家康の正妻で信康の生母である築山殿を自害させ、さらに9月15日には、信康を自害させたという。家康は自分の妻と子を自害させたことになる。
当時、家康には信康以外に2人の男児がいた。だが、於万の方との間に生まれた次男の秀康はまだ6歳で、西郷局との間に生まれた3男の秀忠にいたっては、まだ乳児である。しかも次男の秀康については、家康はなぜか冷遇しており、4歳まで対面を果たしていない。
良好だった信康と家康の関係
乳児の死亡率をふまえれば、後継者はほぼ信康しかいない状況下で、家康が信康を死に追いやったとすれば、よほどのことがあったのだろう。
なにしろ、家康は武田勢との戦いにおいて、殿(しんがり)を務めた信康の勇猛ぶりに「あっぱれ見事な退却である」(『徳川実紀』)と感嘆したという記述も残っているくらいだ(前回記事「家康が溺愛「松平信康」21歳で迎えた壮絶な最期」参照)。
良好だった家康と信康を取り巻く状況を変えたのは何か。『三河物語』や『松平記』によると、信康の妻である徳姫が、父の信長にしたためた書状だったという。
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