「筆まめ」なタイプは相手の心を動かすことに長けている……と今でも言われるが、戦国時代もそうだった。徳川家康は、75年の生涯において、現存するだけで実に約3700通もの書状を書いている。
天正10(1582)年、織田信長の協力を得ながら、ついに武田勝頼を討ち取った年にも、家康はその手紙力を発揮している。その相手とは、武田氏の重臣、穴山信君(梅雪)だ。
武田姓をも許された穴山氏
もともと穴山氏は、甲斐武田氏7代当主である武田信武の子、義武が巨摩郡逸見郡穴山(山梨県韮崎市穴山町)にて「穴山氏」を名乗ったのが始まりとされている。甲斐武田氏の御一門衆として君臨し、武田姓をも許されていた。それが穴山氏である。
16世紀前半から、穴山信友と、その息子である信君が、武田氏の重臣として存在感を発揮。信友は武田信虎の次女にあたる南松院殿を妻に、そして信君は武田信玄の次女にあたる見性院を妻として迎えており、親子2代で婚姻政策によって武田氏とのつながりを強化している。
そんな信君が、武田方を裏切ることになるとは、本人も想像していなかったのではないだろうか。
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