家康が武田重臣「穴山梅雪」寝返らせた緻密な策略 相手の立場を考慮し、不安を取り除く細やかさ

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穴山信君は、今川家臣への凋落を担ったり、隣接する徳川氏との交渉を行ったりするなど、いわば外交のエキスパートとして、信玄から厚い信頼を寄せられていた。信玄から勝頼へと代替わりが行われてからも、やはり外交面でその手腕を発揮している。

信玄の死後、勝頼は長篠城こそ家康に落城させられるものの、天正2(1574)年の幕開けから、反転攻勢に出て、正月に美濃へと侵攻。明智城を攻略すると、5月には勝頼自身が遠江へと出馬。2万5000の兵を率いて出兵し、高天神城を包囲してしまう。

このとき、抵抗する城主の小笠原氏助に対して、勝頼は攻勢をかけながら、開城を促す交渉も展開。交渉役を担ったのが、穴山信君だ。見事に高天神城を開城させることに成功している。

「長篠の戦い」では撤退を主張するも却下

しかし、この頃から段々と勝頼は重臣の意見を軽んじ始めたようだ。高天神城を落とした約1年後の天正3(1575)年、勝頼は長篠城の周囲を包囲。連日のように攻め立てるも、陥落できないまま、織田と徳川の大軍が接近してきた。

すぐに軍議が開かれると、穴山信君らを始めとした重臣は、大軍相手に決戦することに猛反対したという。だが、勝頼の意見は違った。信長と家康が居並ぶ戦場で勝利することでこそ、道が開けると確信したらしい。重臣たちの意見を退けて、決戦に踏み切っている。その結果、あえなく大敗を喫して、武田氏は数千人にもおよぶ兵を失うこととなった。

この長篠の戦いにおいて、穴山信君は大した働きをしなかったらしい。
敗戦後、総大将の勝頼はなんとか生き延びて、数百人の旗本とともに退却。信濃で高坂昌信(春日虎綱)に迎えられている。

昌信は「武田四天王」の1人だが、そのほかの山県昌景、馬場信春、内藤昌豊の3人は、長篠の戦いで命を落としている。

武田氏が危機的状況を迎えるなか、昌信も何とかしなければと考えたのだろう。『甲陽軍鑑』によると、五箇条の献策を行ったという。そのうちの1つが、次のようなものだった。

「武田信豊、穴山信君には腹を切らせること」

なぜ、今この状況下で、わざわざ戦力を減らすようなことを……と思ってしまうが、なんでも「長篠の戦い」において、穴山信君らは右翼に位置しておきながら、目立った働きをしなかったばかりか、早々に戦線を離脱したのだという。

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