「火事場の馬鹿力」という言葉があるように、苦境に陥って必死に対応しようとするなかで、思わぬ力が生まれることがある。スポーツで「ジャイアント・キリング」(番狂わせの大物喰い)が起きるのも、ひたすら目の前の強大な敵に死力を尽くすことで、開ける道があるからだろう。
そんなふうに必死になって著しく困難な状況を抜け出すのと同じくらい、いや、時にはそれ以上に難しいのが「物事がうまくいっているときにどう振る舞うのか」ということ。徳川家康にとって天正10(1582)年はそんな年だった。
この年に織田方の滝川一益や河尻秀隆らに攻められて、武田勝頼は天目山で自害。家康にとっても長年の宿敵だった武田氏が、ついに滅びることとなった。
武田氏の滅亡後に、家康は次の手を打つ
信長は家康の働きぶりを高く評価し、駿河一国を与えている。これで家康は、三河・遠江・駿河の三国を領有することとなった。ほっと一息つきたいところだが、家康はいち早く次なる動きを見せている。
武田勢に勝利した信長らが、安土へと凱旋帰国をする際、家康の領国を通ることになった。そこで家康は信長を全力で接待すべく、準備を急ぐ。勝利の余韻に浸るという発想は家康にはなく、次なる手を打つべく、行動を起こしていたのである。
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