『信長公記』によると、信長率いる織田勢は4月10日、甲府を出発。笛吹川を越えて右左口(うば口)に宿陣する。
家康は道中で、信長軍の兵が担ぐ鉄砲が竹木にあたることのないように、事前に切り払いながら、道を整備して拡張。左右には警備の兵をびっしりと配備したという。
そうして織田勢の安全を図っただけではない。各地にお茶屋などを建てて、贅沢な食事で接待を行った。『信長公記』では、次のように描写されている。
「宿泊地ごとに、陣屋を堅固に建て、二重三重に柵を造り、さらに将兵たちの小屋を千軒以上も陣屋の周囲に建て、朝夕の食事の用意を家臣たちにぬかりなく申し付けておいた」
4月11日、信長は家康の心遣いに感謝しつつ、右左口から女坂を上り、山地に入る。谷あいには休憩所や厩(うまや)を立派に立てて、そこでも酒や肴の接待があったというから、至れり尽くせりだ。山々の道も大木や石を取り払ったうえで、警備を配備した。
随所に見られる家康のもてなし
続いて、柏坂の峠でもやはりきれいな休憩所を用意して、酒と肴を完備。この日は、元栖で宿泊したが、ここもぬかりなく、準備が整えられていた。『信長公記 』には「家康の配慮はありがたいことであった」と記されている。その後は富士山をしっかりと堪能したようだ。
「富士山の裾野、かみのが原・井手野で、お小姓衆たちが無闇やたらに馬を乗り廻して大騒ぎをした。富士山を見ると、高嶺に雪が積もって白雲のようであった。誠に稀に見る名山である。同じく裾野の人穴を見物した」
ここにも休憩所が建ててあり、やはり酒肴がふるまわれている。その後の道中でも、家康のもてなしは随所に見られた。
4月16日には、懸川を出発した織田勢が天竜川に到着。そこで信長は、大いに驚かされることとなる。家康は天竜川に多くの船を用意して、あらかじめ船橋まで架けていたのだ。
「将兵の誰もが家康の努力に感謝したのであって、その功績は言葉には尽くせない。信長が感激し喜んだことは、いうまでもない」(『信長公記』)
念には念を入れた、この対応こそ、家康の真骨頂。大いに満足した信長が、安土城(近江八幡市)に凱旋したのは4月21日のことであった。
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