ちなみに、1590(天正18)年に、秀吉が北条氏討伐のために、京から小田原へ向かう際も、その道中である三河・遠江・駿河にて、同様の接待を行っている。ここぞというときに「接待力」を発揮するのが、家康だった。
そんな家康の「やりすぎ」なほどの信長への接待が、思わぬ展開を呼ぶことになる。
5月11日、今度は家康のほうが、穴山信君などわずかな家臣とともに、浜松から安土へと向かう。
というのも、この頃、もはや武田氏を警戒する必要がなくなった信長は、中国地方の毛利輝元を討つべく、準備を進めていた。信長が中国地方に遠征する前に、家康は駿河を与えられたお礼を伝えようと考えたのである。
手厚い接待を受けたばかりの信長としては、きちんとお返しをしなければ、メンツが丸つぶれだ。家康が安土にやってくるにあたって、東海道の大名たちにこう命じている。
「安土への道中、家康に最大の馳走をせよ」
5月15日、家康は安土に到着すると、金子3000枚と鎧300を献上。領地加増のお礼を伝えるという目的を果たすこととなった。
信長が光秀の不手際に激怒したワケ
信長は、家康が安土に到着したら、盛大に接待しようと考えていた。その饗応役に選ばれたのが、明智光秀である。光秀は家康をもてなすにために、京や大阪で珍味をそろえるなど、実に10日間もかけて準備したという。
ところが、毛利の大軍と対峙する秀吉から援軍を求める急報が届き、光秀は饗応役から解任。四国へと向かうこととなった。
『川角太閤記』によると、解任された理由はそれだけではなかった。光秀が家康に提供した魚が腐っていたために、饗応役から外されて四国に向かうことになったという。このときに、激怒した信長が光秀を折檻したため、光秀は信長を倒すことを決めた……というのが、有名な諸説の1つである。
もし、光秀の不手際が事実だとすれば、家康の手厚い接待があったばかりに、信長は「立場が上である自分は、それ以上の接待をしなければ」というプレッシャーから、光秀への激昂につながったのかもしれない。
接待の後、信長は家康に、京都・奈良・堺の町々を遊覧してきてはどうかと勧めている。それに応じて家康は5月21日、安土を離れて京都へと向かう。
これが、信長との最後の時間になるとは、先を見通すことに長けた家康でも、さすがに予測することはできなかっただろう。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
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