『甲陽軍鑑』は裏切り者となった穴山信君に手厳しく、またこの五箇条の献策自体が、実際にあったかどうかは疑わしい。たとえ事実だとしても、穴山信君からすれば、自分たち重臣の意見を退けてまで、無謀な決戦を決めたのだから、少なくとも前向きにはなれなかったことだろう。
穴山信君は戦線離脱したあとに、勝頼の本陣までやってきて、こう言い放ったともいわれている。
「信玄以来の家老衆をことごとく殺してしまったではないか!」
この発言も事実かどうかは怪しいが、内容自体はその通りだと言わざるをえない。勝頼からすれば、ぐうの音も出なかったことだろう。
重用されても裏切ったワケ
結局、勝頼は昌信の献策をほとんど却下しており、穴山信君にいたっては、切腹どころか、かえって重用している。信君は戦死した山県昌景に代わり、江尻城に入ることになり、そこが駿河支配の拠点となった。
勝頼からすれば、やはりベテランの力を借りざるをえないということだろうが、信君からすれば、沈みゆく船で今さら奮起するのは難しかったのではないだろうか。
また勝頼は、息女を穴山信君の嫡男に嫁がせる予定だったところ、婚約を破棄。その相手を従弟の武田信豊に変更した。信君の胸中は穏やかではなかっただろう。
信君の勝頼に対する不信感が高まるなか、絶妙なタイミングでアプローチを行ったのが、家康である。天正10(1582)年3月2日、こんな趣旨の手紙を穴山に送った。
「当方に帰服するならば、甲斐一国をあてがうが、その前に、信長から扶持を貫えるように斡旋する。もし、それがうまくいかなければ、家康が扶助する」
この書状が秀逸なのは、提案内容が極めて具体的なところである。何をすれば、どんな見返りがあるのか。しかも、家康は信長とかけ合うことを約束すると同時に、「うまくいかなかった場合」についても、きちんと明記している。
相手の立場に立って、不安に思うことのないように配慮する――。この細やかさが家康の真骨頂だろう。信君はこの手紙を受けて、家康を仲介として、信長へと寝返ることとなった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』 (平凡社)
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