上記のように、意外な粘りを見せた勝頼を、徳川家康は少しずつ追い詰めていった。武田家との戦いにおいて、存在感を見せたのが家康の嫡男、松平信康である。
長篠の戦いが終わると、武田軍に取られた城を取り返すべく、家康は二俣城、光明城、犬居城と落城させた。さらに、諏訪原城を攻略。そのままの勢いで小山城を攻撃している。『当代記』によると、小山攻めは「織田方に援軍を要請してからのほうがよいのではないか」と重臣に諫められたが、家康が実行に移したという。
それだけ自信があったのだろうが、家康なりの読みもあった。勝頼がこのとき相手にしていたのは徳川勢だけではない。上杉謙信にも備えなければならないため、小山城の後詰めには来られないだろうと考えていたのだ。
しかし、小山城を守備する城将の岡部元信が、徳川勢の猛攻を凌いだことで、戦況は変わっていく。勝頼も後詰めに現れて、大井川に着陣。小山城を包囲する徳川軍を蹴散らすために、川を渡ろうとしてきたという。
家康はすぐさま小山城の攻撃を諦めて、退却を指示。このときに殿(しんがり)を務めたのが、息子の信康だった。「殿(しんがり)」とは、軍が退却する際に、軍列の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目のこと。命をも落としかねない任務を、信康自らかって出たらしい。『三河物語』によると、次のように述べたという。
「これまでは敵に向かっていたので私が先陣を切ったが、これからは私が敵を後にして引き上げることにしよう。まずは父上がお引上げください。親をあとにおいて引き下がる子がどこにいましょうか」
信康は最後尾で武田軍を牽制しながら、大井川沿いを後退。危険な任務を見事にやり遂げている。
家康も感嘆した信康の勇猛ぶり
先の長篠の戦いにおいては、17歳にして一隊の大将として出陣した信康。それ以後も、日に日にわが子が成長していることに、家康は手ごたえを感じていた。『徳川実紀』には、わが子の雄姿を喜ぶ家康の言葉が記されている。
「あっぱれ見事な退却である。このようでは勝頼が10万の兵にて攻め来たとしても、我々を打ち破ることはできまい」
これで徳川家も安泰だ――。そんな胸中の声さえ聴こえてきそうである。だが、信康の運命はここから急転直下で、暗転することになる。
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