孫子の兵法「戦わずして勝つ」を武田勝頼も実践
先達はどのようにやっていたのだろうか――。時代を問わず、新しいポジションに就いたときには、前任者の仕事ぶりが1つの基準となる。これまでのやり方を踏襲する場合はもちろん、大改革を断行するときもやはり、前任者の仕事ぶりを1つの判断基準としていることには変わりない。
武田信玄亡きあと、武田家を継いだ武田勝頼もまた、そうだった。徳川家康と織田信長の連合軍を相手どった大一番を迎えるにあたって、勝頼は父の信玄がモットーとした戦のセオリーを実践しようとした。
それは「戦わずして勝つこと」である。孫子の『兵法』で理想とされている戦い方を、信玄は目指していた。巧みな外交でのらりくらりとした態度をとったり、調略によって相手方を切り崩したりするなど、いざ合戦となる前に何らかの手を打つのが常だった。
勝頼もまた父の信玄のごとく調略によって、相手を切り崩そうとした。だが、1人の男の意外な行動によって、その作戦は失敗に終わる。
男の名は、鳥居強右衛門。足軽にすぎない奥平家の家臣が、勢いに乗る勝頼の出鼻をくじくこととなった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら