勝頼の申し出は、鳥居強右衛門にとって悪い話ではない。いや、よいことしかないといってもよいだろう。鳥居強右衛門はこんなふうに答えたと『三河物語』では記載されている。
「ありがとうございます。命をお助けいただけるなら何でもいたしますが、そのうえ、知行地をくださるとのお言葉ありがたきこと、これ以上のものがありましょうか。長篠の城近くに早くはりつけにしてください」
見事に策略がはまって、勝頼もさぞ満足したに違いない。さっそく、作戦は実行に移されている。磔にされた鳥居強右衛門は、城に向かってこう呼びかけた。
「城から出てきて聞いてください。鳥居強右衛門尉はひそかに戻ろうとして捕まり、このざまだ」
ここまでは作戦どおりで、武田勢も陰で「いいぞ、いいぞ」とほくそ笑んだことだろう。だが、その後、鳥居強右衛門は大声でこう言ったという。
「徳川軍の救援は間近で、城を持ちこたえよ!」
まさかの言葉に鳥居強右衛門はすぐさま処刑されるが、この決死の行動に長篠城が奮い立ったことは言うまでもない。奥平勢は死力を持って籠城戦を継続。やがて待望の援軍が到着することとなった。
策におぼれた武田勝頼、臨機応変に対応した徳川家康
策に溺れた感のある勝頼だが、孫子の『兵法』には、こんな心得もある。
「勢とは、利に因りて権を制するなり」
勢いは、その時々の有利な状況を見抜き、臨機応変に対応すること――。その点では、家康のほうが上回ったといえそうだ。長篠城が包囲されるやいなや、信長に援軍を要請して、岐阜から引っ張り出している。
高天神城を攻められたときには、援軍が間に合わず、勝頼に負けているだけに、家康も信長も、その二の舞は避けたかったのだろう。信長は5月13日に岐阜から出馬し、18日には長篠城近くの設楽原(したらがはら)に到着した。
先に到着した家康は8000あまりの兵で弾正山に本陣を置き、あとから来た信長の本隊は、極楽寺山に陣を敷いた。そのほか、嫡男の織田信忠は天神山に、次男の織田信雄は御堂山にそれぞれ陣を敷くなどし、織田軍の総勢は実に3万人あまりに上った。
この準備がなければ、鳥居強右衛門が奔走した努力も無駄に終わったことだろう。家康らしい「不安だからこそ動く」対応が功を奏したといえそうだ。
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