現に織田信雄は小田原城攻めで軍功を挙げて、秀吉から国替えを持ちかけられると、これを拒絶した。尾張の代わりに、家康が領有していた三河などの5カ国があてがわれることになっていたが、父祖伝来の地である尾張を捨てたくなかったのだろう。しかし、自身の意思を貫いた結果、悲劇を招くことになる。
激怒した秀吉は、信雄に改易という重い処分を下す。信雄は、下野国那須(栃木県那須烏山市)へと流されてしまった。
「対応力」で明暗が分かれた信雄と家康
もっとも信雄が国替えに抵抗を示したのは、自身の尾張への思いにこだわったからだけではない。
事前に尾張で国替えの噂が流れると、清洲城下はパニック状態になり、家財道具を持ち出して逃げようとする織田家家臣や町人が相次いだ。そんな事態を受けて、信雄は城下町に番人を置いて「家財道具を持ち出して逃げる者は磔にせよ」と命じたというから、必死である。
国替えは、主君だけではなく、自分に従う者にも大きな負担となる。そのことを思えば、できれば避けたいと考えるのは自然だろう。
だが、家康は国元の動揺を抑えるのに苦心するのがわかっていても、秀吉の対応を見誤ることはなかった。「けっこうです。国替えします」(『三河物語』)と、秀吉の提案をすぐに受け入れている。
「それぞれの要望など聞いていては、全国支配などできないから、自分の思い通りにする」という秀吉の強い意思を、家康は感じ取っていたのだろう。対応力の差で、信雄と家康で、明暗が分かれることとなった。
家康の対応力については、こんな逸話もある。
ついに天下統一を果たした秀吉は、海の向こうの朝鮮半島へと目を向け始めた。明国を征服するため、経由地となる朝鮮に服属を命じたところ、それが拒絶され、二度にわたる朝鮮出兵へと踏み切ることとなる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら