NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第45回は、家康がイギリス人航海士のウィリアム・アダムスを重宝した理由を解説する。
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自分が今、やるべきことは何だろうか――。そう自問自答しながら、私たちは毎日を忙しく過ごしているが、「今やるべきこと」は2つの視点から考えることが大切だ。
秀忠を安全な江戸に帰す
1つは「差し迫った事態への対応」である。慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉が伏見城で62年の生涯を閉じたとき、家康がまず行ったことは、嫡男である秀忠を江戸に帰すことだった。
なにしろ、秀吉の後継者となる秀頼はたったの6才である。表向きは秀頼を立てるとしても、実権は誰が握ることになるのか。熾烈な内部抗争を予見した家康は、自分に万が一のことが起きたときのために、未来を託す息子の秀忠を安全な地へと移したのである。いかにも慎重な家康らしい行動だ(前回記事「秀吉の遺言破った家康が唯一気を遣った男の凄さ」参照)。
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