家康が重宝した「イギリス人航海士」の数奇な運命 ウィリアム・アダムスが政権内で果たした役割

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そして、「今やるべきこと」を見極めるために、もう1つの重要な視点が「来たる未来にそなえた準備」である。どうしても、人は目の前の対応に追われがちで、長期的なスパンでの取り組みが後回しになってしまう。

だが、家康は秀吉が亡くなり、政権がカオスに陥るなかでも、いや、カオスに陥るなかだからこそ、将来に向けたアクションを怠らなかった。それは当時「世界最強」とも称されたスペインとの外交である。

浦賀にスペイン商船を誘致していた

慶長3(1598)年11月、家康は宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスを伏見城に呼び出した。ジェズスは、もともと長崎や京都で布教活動をしていたが、秀吉によってフィリピンのマニラへ追放。それでも布教をあきらめず、再び来日して潜伏していたところを、家康がわざわざ探し出して、対面を果たしたのである。

『徳川家康のスペイン外交 』(鈴木かほる著、新人物往来社)によると、家康はスペインとの国交を結ぶために、マニラからメキシコのアカプルコに向かうスペイン商船に目をつけたようだ。寄港地として浦賀を使ってもらおうと、ジェズスを通じてスペイン国王にアプローチし、スペイン商船を招致している。

それだけではない。ジェズスが残した書簡によると、家康はスペインと貿易するだけではなく、造船技師や航海士、さらに、鉱山技師まで招聘しようとしていた。江戸城近くにある浦賀を、長崎と平戸に並ぶ国際貿易港にしようと考えたのだろう。また、ポルトガル人が長崎で日本貿易を独占している現状は好ましくない、という問題意識もあったようだ。

そんなふうに、家康が宣教師を招いてスペイン外交の道を探り始めたのは、秀吉の死からわずか3カ月後のこと。征韓軍が朝鮮から引き揚げていた真っ最中の時期である。その後、豊臣政権内では、加藤清正らの武断派と石田三成らの文治派が対立を深めていく。

豊臣政権内がゴタゴタで混乱の極みにあるなか、家康は五大老の1人でありながら、国の代表者のごとく、スペイン外交の布石を打っていたことになる。

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