家康が重宝した「イギリス人航海士」の数奇な運命 ウィリアム・アダムスが政権内で果たした役割

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「どの国から来たのか、そして、こんなに遠い日本になぜ来たのか」

そんな問いを皮切りに、家康はアダムスに、ヨーロッパの戦争状態や信仰についての質問を行っている。その後、いったんは牢屋に捕らえながら、2日後にまた呼び出して、オランダやイギリスの特色、また、動物や天体についてなど、多岐にわたるテーマで話をしたという。

外国人も側近にとりたてて重用した

家康がアダムスと対面したのは、時にして1600年5月12日(慶長5年3月30日)。関ヶ原の戦いが行われるまで、もう半年もない時期だったが、家康は「その後」を見据えていたようだ。

確かな航海技術を持ち、語学も堪能でスペイン語、ラテン語も操ったアダムス。西洋事情に精通していることも魅力的だったのだろう。家康はアダムスを外交顧問に抜擢している。

外交策を考えるうえで、家康はブレーンとしてアダムスを重宝し、アダムスもまた家康から信頼されていることに手ごたえを感じていた。書簡にこんな気持ちを綴っている。

「私の意見を、大君は素直に聞いてくださる」

慶長9(1604)年、家康が征夷大将軍となった翌年に念願がついに叶う。関西に停泊していたスペイン商船を浦賀に回航。以後は毎年、浦賀にスペイン商船が入港するようになったのである。また、同年からアダムスは家康に命じられた洋式帆船の建造に着手し始めた。

そんなアダムスの功績を家康はよほど買っていたのだろう。アダムスが妻子の待つイギリスへの帰国を願い出ると、手放したくない家康は頑として認めなかった。慰留すべく家康は、アダムスを250石の旗本として取り立て、さらに日本名まで与えている。アダムスに領地として与えた三浦半島の名にちなんで、こう名づけられた。

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