とはいえ、国内問題が家康の眼中になかったわけではなく、むしろ、現状への危機感を募らせていた。
なにしろ、秀吉がしかけた7年にもわたる朝鮮出兵によって、日本は対外的に孤立し、国内の経済基盤も荒廃。今後の復興のためには、経済大国であるスペインとの国交回復が急務となる。家康はそう考えて、具体的な行動をいち早く移したのだろう。外交と内政とはいつでも表裏一体である。
だが、家康のジェズスを通しての働きかけも、結果的には失敗に終わった。浦賀をスペイン商船の寄港地にするというプロジェクトは一向に進まず、スペインとの交渉は頓挫してしまう。家康は家臣をマニラに派遣してまで、実現の道を探っていただけに、もどかしかったことだろう。
やはり言語の壁を越えて、海外と交渉するのは簡単なことではない。家康はこの経験から、西洋事情に詳しい人材を、自分の側近としなければならないと痛感したようだ。そんなときに現れたのが、ウィリアム・アダムスだった。
アダムスと大阪城で対面した家康
アダムスは1564(永禄7)年にイギリスのケント州ジリンガムに生まれた。12才で父を亡くすと、船大工のもとに弟子入りして、住み込みで働いたという。12年間の奉公生活を経て、24才で海軍に入隊。イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破ったアルマダの海戦にも、船長として参加している。
海軍を離れると、ロンドン会社の航海士として活躍。オランダ人の船員たちとも交流を深めるなかで、ロッテルダムから極東を目指す船団に航海士として参加することになる。アダムスが乗り込んだリーフデ号は、台風に遭遇しながらも、日本に漂着。豊後国臼杵の黒島に着くが、商品のほかに大砲と武器を積んでいたため、海賊だと疑われてしまう。
衰弱して動けない船長にかわって、航海長のアダムスが、船員のヤン・ヨーステンと大阪城に向かうこととなった。そこで待ち受けていたのが、家康であった。
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