天下人になった徳川家康「人生最期の名言」の重み 亡くなる直前まで政治闘争の中に身を置いた
大坂夏の陣の翌年の元和2年(1616)正月5日、徳川家康は駿府で鷹狩をしていた。それから16日後にも、家康は駿河の田中で鷹狩を行った。
ところが1月21日の夜、家康は痰がつまってしまい、床につく。家康の病については、油で揚げた鯛の天ぷらを食べたことが原因とも言われているが、確かなことは不明である。
翌日には家康の体調は回復し、同月25日に家康は駿府に戻った。2代将軍・徳川秀忠は、家康の病を心配し、家臣を駿府に遣わせている。また、自らも2月2日に駿府を訪問している。
家康が亡くなるまでの2カ月余りを秀忠は駿府で過ごしていることから、秀忠の胸には「もしや……」という予感があったのかもしれない。家康の病は京都にも伝わった。天皇は寺社に病気平癒の祈祷を命じ、勅使も派遣された。
我が子の行く末を案じた家康
3月17日、家康は勅使と対面した。家康が太政大臣の推任を受けると返答したので、同月21日、家康は太政大臣に任命された。しかし、家康自身は自らの死期を悟っていたようで、秀忠に対し「この煩い(病)にて果てると思うが、このように、ゆるゆると天下を渡せるのは満足だ。思い残すことはないが、徳川義直・頼宣・頼房をそばにおいて目をかけてくれ。これのみが頼みである」と伝えたという。
年をとってから生まれた我が子らの行く末を案じ、秀忠に目をかけてくれと懇願したのである。
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