天下人になった徳川家康「人生最期の名言」の重み 亡くなる直前まで政治闘争の中に身を置いた

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3月27日以降、家康は食事ができなくなったが、それでも、翌日以降も諸大名や武家伝奏とも対面するなどしている。病床の家康を諸大名が見舞うなか、家康は「将軍・秀忠の政策がよくないときは、各々が代わりに天下を治めよ。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、我はこれを怨まず」(『徳川実紀』元和2年4月条)と語ったという。

天下は徳川一家のものではない。悪政が行われ、万民が苦しむくらいなら、徳川政権は打倒され、優れた者が政治を執り行うことこそが理想だという意味が込められているとされる。

諸大名の内心を探ろうとした?

一方でこの言葉は、家康が諸大名の内心を探ろうとしたものとも言われている。

私は死ぬ間際の家康がわざわざそのようなことをするとは思えず、動乱の世を駆け抜け、織田信長や豊臣秀吉ほか数々の名将の栄華と没落を見てきた家康が、日頃から思っていた本音を吐露しただけだと信じたい。

だが、家康は病床にあっても、伊達政宗が謀反を起こすのではないかと疑い(これは、政宗の婿で、家康の6男・松平忠輝の讒言による)、政宗を東北から呼び出したりもしているので、前述の発言も、大名の本音を探る目的があったとしてもおかしくない。

家康は死ぬまで「政治闘争」のなかに身を置いていたのだ。政宗は家康と会い、疑いを解くが、その際に家康からは「今後いよいよ将軍家(秀忠)のことを頼んだぞ」との言葉があったという。

『徳川実紀』(元和2年3月条)にも「将軍家の御事、頼み思召む」との記述がある。家康の心中には、徳川家の行く末を思う心と、天下のことを思う心が混在していたのだろうか。

4月2日には、家康から死後のことについての話があった。「死後、遺体は駿河久能山に葬れ。葬礼は、江戸の増上寺で行え。位牌は三河の大樹寺に立ててくれ。一周忌が過ぎたら、下野国日光に小堂を建てて、勧請せよ。関東八州の鎮守となろう」との遺言だった。枕元には、本多正純・天海・金地院崇伝らが呼ばれていた。

どうする家康 大河ドラマ
増上寺(写真: Masa / PIXTA)

4月4日、家康はしゃっくりと痰が出て、ふたたび熱も出た。同月7日には、粥を食べることもあったが、9日の夜には吐いてしまう。4月11日には食事は喉を通らなかった。もはや、今日・明日の命と思えるような状態であった。14日には少し回復したものの、17日の午前10時に家康は亡くなった。74歳であった。

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