「武田家が滅亡」裏切り者が続出した"きっかけ" 窮地に立たされた勝頼、信用を失ったその理由
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。
信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を本格的に攻撃し始める。
元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。
甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。
なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。
1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北条氏政の弟)との間で家督を巡る内戦(御館の乱)が勃発。天正7年(1579)3月、内乱は上杉景虎が自刃したことにより、終結した。
同盟を結んでいた北条氏との関係悪化
武田勝頼はこの内乱に介入し、上杉景勝に味方した。武田氏と北条氏は同盟を結んでいたが、武田が上杉景勝に味方したことで、景虎方の北条氏との関係が悪化し、同盟は崩れてしまった。
その後勝頼は、上杉景勝との関係強化をはかるために、妹・菊姫を景勝のもとに嫁がせる。勝頼の父・武田信玄が上杉謙信と何度も干戈を交えていたときのことを思えば、隔世の感があるが、ここに甲斐と越後の同盟が成立したのだ。
勝頼は、北条氏との対決を睨んで、常陸の佐竹義重とも同盟を結んだ(1579年10月)。ところが、北条氏政は家康と結んだため、武田勝頼は東西から挟撃される状態となった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら