「武田家が滅亡」裏切り者が続出した"きっかけ" 窮地に立たされた勝頼、信用を失ったその理由
高天神城はついに落城した。武田勝頼が高天神城の救援のために出陣しなかったことは、勝頼の信用を傷つけるものだった。
『信長公記』には「武田勝頼は、甲斐・信濃・駿河において、多数の勇士を討ち死にさせた。また、高天神城の将兵を餓死させ、援軍を送ることもできなかった。よって、天下の面目を失った」とある。続けて同書は「これは、信長公の御威光であるが、同時に家康公の勝利のゆえである」と、家康の貢献の大きさを説く。
さらには「三方ヶ原では武田信玄と戦をし、長篠合戦では武田勝頼と合戦をした。何れも勝ち戦で、その手柄はめざましい。しかも、武と徳の両道に優れ、神のご加護もある」と家康を過剰に誉めている(三方ヶ原では、家康は信玄に敗北している)。
武田家の中で軋轢が生まれる
一方の家康は、高天神城を奪い返し、遠江国全域をほぼ平定することとなった。 追い詰められた武田勝頼は、天正9年(1581)には、新府城(韮崎市)の築城を始め、新館に移るが、武田一族や重臣のなかには、新府への移転に反対する者もいた。
新府移転は、勝頼と家臣との軋轢を生んだようで、天正10年(1582)になると、離反者が現れる。勝頼の妹婿である信濃国の木曽義昌が、織田信長に内通したのである。
勝頼はすぐに兵を出し、1万5000の軍勢でもって、木曽義昌を討伐しようとし、天正10年2月2日には、信濃の諏訪上原(茅野市)に陣を敷いた。信長はこの機を逃さなかった。
翌日(2月3日)には、多方向からの侵攻を命令したのだ。駿河からは家康が、飛騨からは金森長近が、関東からは北条氏政が、信濃伊那からは信長・信忠父子が攻め入ることが決められる。家康は、2月18日に浜松城を出て、同月21日には駿府に入った。
信長や家康軍が攻め寄せると、武田を裏切り、織田方に味方する者も現れてくる。早くから内通していた穴山梅雪もその1人である。梅雪は、駿河国の江尻城(静岡市清水区)にあったが、「信長公の味方して、忠節を尽くせ」との指令があると、すぐに寝返ったのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら