「武田家が滅亡」裏切り者が続出した"きっかけ" 窮地に立たされた勝頼、信用を失ったその理由

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窮地に陥った勝頼は常陸の佐竹氏を通して、対立していた織田信長と和睦しようとする。だが信長は見向きもしなかった。

そういった諸々の状況があり、武田勝頼は遠江国に出陣できなくなり、高天神城の後詰(味方を救うための援助)も叶わなかったのだ。

そうなると、高天神城の攻防戦は、徳川方が有利となる。徳川方は、大坂砦・相坂砦・中村砦・獅子ヶ鼻砦など数々の砦を築き、高天神城の包囲を狭め、追い詰めていく。ついには高天神城に籠城していた者たちも音を上げ、矢文で降伏を申し出る状態に陥った。助命されるなら、同城のみならず、小山城や滝堺城も譲るとの申し出もあった。

織田信長は高天神城の降伏を認めず

しかし、それを拒否したのが、織田信長である。信長の拒否の理由は次のようなものだ。「私は1、2年の間に駿河や甲斐に攻め込む。もし、武田勝頼が高天神城の後詰に出てくるのであれば、手間はない。討ち果たして、駿河・甲斐国を手中にする。勝頼が後詰に出てこず、高天神城などを見捨てるのであれば、彼は信頼を失い、駿河の諸城を保つことはできなくなるだろう」 。勝者の余裕というものが伝わってくる。家康は信長の意向に従い、高天神城の降伏を認めなかった。

『三河物語』には、高天神城の攻防戦の最終局面も記されている。同書によると、高天神城の包囲は、城中から蟻一匹這い出る隙のない厳重さであったという。

四方には深く堀が掘られ、高い土塁や板塀が築かれ、堀の向こうには七重八重の大きな柵が設けられていた。そうした中で、城中の者たちは打って出てきた(1581年3月22日)。大久保彦左衛門は太刀で、高天神城の大将である岡部元信を負傷させたという。そして、彦左衛門の配下の本多主水が元信を討ち取ったそうだ。

彦左衛門が言うには「岡部丹波(元信)と相手が名乗っていたならば、配下の者に討たせることはなかったが、名乗らなかったので、そうした」とのことだ。

『三河物語』には徳川方が「堀一杯、敵を殺した」「夜があけて首をとった」「大方を殺した」との記述が見られ、徳川方が圧倒的に優勢だった様子がうかがえる。

『信長公記』にも、このときの高天神城攻めが記載されており、 籠城する武田方の大半は兵糧不足で餓死したので、最早これまでと残党が城を打って出てきたという。

同書には、徳川方で、武田の将兵の首を討ち取った武将の名がズラリと記されている。

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