天下人になった徳川家康「人生最期の名言」の重み 亡くなる直前まで政治闘争の中に身を置いた
家康の遺体は、その夜に久能山に運ばれ、19日に仮殿に埋葬された。埋葬は、吉田神道に則って行われた。
家康は「大明神」として祀られる予定だったが、天海が神号は権現とするべきだと主張。天海の主張が受け入れられ、家康は「権現」として祀られることになった(5月26日)。
日光東照社の大造替に取り組んだ家光
家康の神号の候補には「日本大権現」「東光大権現」「東照大権現」「霊威大権現」の合計4案があり、公家から天皇に奏上した。
案は将軍・秀忠にも示され、秀忠の考えにより「東照大権現」が家康の神号となった(9月5日)。家康は朝廷から東照大権現との神号を得て、神として祀られることになったのである。
日光東照社の大造替に着手したのが、3代将軍の徳川家光であった。しかし、それは家康の望んだことだったのだろうか。
家康は「日光山に小さき堂をたて勧請」するように遺言している。大規模な社殿に祀ってほしいなどとは思っていなかっただろう。「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下である」。家康の最後の名言が重く響く。
(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
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