関ヶ原直前!大名の心摑んだ「家康の手紙」の威力 50日間にわたって、82人もの外様大名に送った

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家康にとっては、願ったりかなったりの展開となったが、何も勢いだけで乗り切ったわけではない。小山評定を迎えるにあたって、福島正則こそキーマンになると読んだ家康は、こんな書状を事前に出していた。

「早急に宇都宮までご出陣とのこと。ご苦労に思います。さて、上方で石田治部少輔三成が決起したとの雑説が伝わってきたので、将兵についてはその地でお留めになって、御自身はここ小山までお越しいただきたいのだが、いかがだろうか」

小山に呼ぶからには理由が必要だ。ここから、家康ならではの根回しの文言が来るかと思いきや、さにあらず。続く文言はずいぶんとあっさりしている。

「詳しいことは黒田甲斐守長政・徳永法印寿昌が申し上げるでありましょうから、詳しくはここで記すことはできません。謹んで申し上げます」

慎重な家康はここで天下取りの野心があると思われれば、小山まで来てもらえない可能性があると考えたに違いない。重要なことがあると匂わせたうえで、考える時間を与えている。正則はじっくり考えた結果、小山評定では、家康支持をすぐに打ち出すことになった。

一方で、何気なく軍勢を現地に置かせているあたりも、正則に変な気を起こさせないためだろう。このあたりも実に細かいのが、家康流の書状である。

伊達政宗にさりげなくアピールしたかったこと

戦国の世において、書状で相手の心を動かすためには「自分が有利な立場にいる」ということを相手に伝える必要がある。しかし、あからさまにやってしまうと、反発を招きやすい。そのあたりの些事も、家康は十分に心得ていた。

上記したように、家康は会津の上杉征伐のために下野国小山まで行っていたところで、三成の挙兵を知り、江戸に引き返している。その際に、家康は息子の秀忠を小山において、奥州の大名たちには「上杉に備えるように」と釘を刺した。そのうちの1人が、伊達政宗である。

伊達政宗 大河ドラマ どうする家康
伊達政宗像(写真: えりんこ / PIXTA)

江戸に到着すると、家康は大崎少将こと伊達政宗に対して、次のような手紙を書いた。

「上方を打ち捨てて、会津討伐を遂行する覚悟だったが、福島正則や池田輝政らが〈上方の仕置を命じないと困る〉と再三申し入れてきたので、とりあえず江戸に戻った」

家康がいきなり江戸に引き上げたことに対して、政宗が不審に思うことのないように、経緯を説明している。着目したいのは、福島正則や池田輝政らの名前を、ごく自然に出していることだ。

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