もっとも西笑承兌に宛てられたといっても、「直江状」の本文を読めば、家康本人が読むのを承知のうえで書かれていることがわかる。家康への挑戦状といってもよいだろう。
『徳川実紀』では、次のように書かれている。
「兌長老(西笑承兌)を通じて、直江のもとへ手紙を出して、心情をうかがってみたが、兼続の返事は傲慢無礼きわまりなく、家康は、すぐに自ら征伐にいかなければ、と言った」
家康が怒り心頭に発したのは、直江による「噂の出所を調べもせず、いきなり詰問とは」といった挑発的な書状の内容に違いないが、家康自身が「書状」というものを大事にしていたことも、感情を逆なでした理由の1つかもしれない。
家康は「関ヶ原の戦い」を迎える前の50日間にわたって、実に82名もの外様大名に手紙を出しており、その数は確認されているだけでも、約160通にもおよぶ。家康がいかに書状を重要視していたかがわかるだろう。
あえてぼかした書状を書くことの意味
家康は会津征伐のために、大軍を率いて江戸を出立。だが、道中で石田三成が決起したことを知って、軍を反転させる。7月25日に小山(栃木県小山市)に諸将を集めて、「小山評定」と呼ばれる軍評定が開かれることとなった。
ここで家康は「自分に味方するか、三成に味方するか。各自の判断に任せる」と伝えたといわれている。というのも、諸将の中には、大坂で妻子が人質になっている者もいる。それぞれが抱える状況が異なることを配慮したうえでの、家康の言葉だった。
かつて、マケドニアのアレクサンドロス大王が、東へ遠征するにあたって、精鋭の兵たちに放った名言を思い出させるではないか。
「去る者は去れ。たとえ少数でも、その意思のある者とともに、私は遠征する」
そんな家康の「三成を討つ」という覚悟にいち早く応えたのが、豊臣恩顧の筆頭的存在である、福島正則だ。
正則は「妻子の命をなげうってでも、家康に与する」と力強く宣言。この言葉を受けて、諸将たちは家康支持に回ることになった。正則が小山評定の流れを作ったといってよいだろう。
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