NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第47回は、関ヶ原の戦いに参戦できなかった、西軍最強と呼ばれた武将について解説する。
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秀吉から「天下無双」と絶賛された男
あの男がもし、関ヶ原の戦いに間に合っていれば――。
一部の歴史ファンの間で、そう悔やまれている人物がいる。といっても、戦に遅参して家康に激怒されたという、嫡男の秀忠のことではない。
秀忠の遅参については諸説あり、信濃国上田城主、真田昌幸に足止めされたというのは誤解で、もともと「攻略後に上洛せよ」と家康から命じられていたともされている。つまり、もともと上田での足止めは、家康にとって想定内だったというのだ。いずれにせよ、東軍は勝利したのだから、秀忠の遅参が勝敗に影響することはない。
では、関ヶ原の戦いで不在だったことが、悔やまれる人物とは、誰なのか。それは、豊臣秀吉から「天下無双」と絶賛された立花宗茂である。
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