父の紹運は、そんな息子の立派な態度に心を打たれたようだ。一人前の武将に育て上げようと、宗茂は13才のときに父から「おぬしも出陣するか」と誘われている。だが、これには慎重さを見せてこんなふうに答えた。
「このままの状態で戦場に出て、敵に出会えば腑甲斐なき死をとげることでしょう。あと 1、2年も経てば、大将としてぜひ出陣したいと願っております」
勇猛ながらも無鉄砲ではないクレバーさを兼ねそろえていた宗茂。いずれも『名将言行録』からの逸話であり、事実かどうかは定かではない。だが、その後の「宗茂伝説」を観れば、この少年らしからぬ堂々たる態度も、本当だったのではないかと思えてくるのだ。
宗茂の初陣は14才とも16才ともいわれている。筑前朝倉の名門である秋月種実らが押し寄せてくると、宗茂の父・紹運と宿老である戸次鑑連(立花道雪)に、出陣が命じられた。
この石坂合戦において、宗茂は初陣にもかかわらず、わざと父から離れて陣をはったという。周囲から合流されるように促されても、こう言って別行動を貫いた。
「父と一緒に戦えば、私に従うべき兵も、私の命令に従わなくなるだろうから」
その結果、宗茂は敵将の堀江備前を射って見事に勝利。初陣とは思えない度胸に、立花道雪は以前から関心を持っていた宗茂のことを、いよいよ気に入ったらしい。「養子にほしい」と希望するようになった。
とはいえ、宗茂は紹運にとっても、有望な跡取り息子である。当初は申し出を拒んでいたものの、紹運は道雪を心から尊敬していたため、最終的には求めに応じて、宗茂の養子入りが実現することとなった。
初陣以降も、宗茂は戦で勝利を重ねて、大友宗麟の家臣として、めきめきと頭角を現していく。
強大な島津軍に少数で立ち向かった
宗茂の勇猛さと知略が存分に発揮されたのが、天正14(1586)年のことである。前年に豊臣秀吉は大友氏と島津氏の両方に九州停戦令を発しており、大友氏はすぐに受諾するなか、島津氏はこれを拒否。島津義久は大軍を率いて、筑後・筑前にまで、怒濤の侵攻を開始した。
島津軍のすさまじい猛攻のなか、大友軍は秀吉からの援軍が来るまで、なんとかしのぐほかはなかった。しかし、岩屋城に立て籠った実父の紹運は戦死している。実は、宗茂は紹運に「ともに籠城を」と呼びかけていたが、紹運はこう言って退けたという。
「父と子が同じ場所にいて討ち死にすれば先祖からの血が途絶えることになる。たとえ、一方が滅んでも、後一方が残ればよいではないか」
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