NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第36回は、秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」とその後を解説する。
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書状で大げさに戦果をアピール
戦国の世において、徳川家康が豊臣秀吉を相手にたった一度だけ正面衝突した戦い、それが天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」だ。
家康は尾張国小牧山城に、秀吉は犬山城に、それぞれの本陣を敷いて膠着状態が続いていたが、秀吉方についた池田恒興や森長可らが動く。手薄となった岡崎城を攻めて、家康勢を小牧山城から、おびき出そうとしたのだ。
だが、家康はこの作戦を察知する。「それなら兵をさしむけよう」(『三河物語』)と、4500の兵を先発させ、自らも織田信雄と9000の兵を率いて追撃。見事に相手方を討ち取っている。
家康はすぐさま家臣の平岩親吉と鳥居元忠に、こんな書状を送っている。
「今日9日の午の刻に、 岩崎において合戦し、池田紀伊守、森長可、堀秀政、長谷川秀一ら敵の大将を始めに1万人を討ち取った」
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