さらに「このまま上洛する」とまで書いているのだから、意気揚々とはまさにこのことだろう。しかし、この手紙の内容は、やや事実とは異なる。
敵将の池田恒興と池田元助の親子、そして、森長可らを討ち取ったのはその通りだが、堀秀政や長谷川秀一らは無事である。うれしさのあまりに戦の当日に書状を書いたため、情報が錯綜していたのだろうか。
翌日の10日には、丹波氷上郡の土豪である赤井(蘆田) 時直にも書状を出して、やはり戦果を書き綴っている。
「昨日9日に合戦に及んだところ、池田勝入ら父子3人を始めに、森長可、堀秀政、長谷川秀一、三好孫七郎、そのほか、大将を10人あまりのほか、1万人ほど討ち取った」
またも討ち取られていない堀秀政、長谷川秀一の名が連ねられているうえに、今度は三好孫七郎の名まで加わっている。三好孫七郎は三好信吉の通称であり、のちの豊臣秀次である。秀吉の甥で、家康に撃破された別動隊では大将を務めた。壊滅的な大敗を喫しながらも、命からがら逃亡しており、討ち取られてはいない。
戦から1日が経って情報が正確になるどころか、より大げさになっている家康の書状。これもまた、家康なりの戦勝ムードを高める方法の1つなのだろう。
秀吉の知略が発揮される
威勢よく出陣した池田と森の軍が総崩れして慌てたのは、秀吉である。すぐさま援軍を派遣するも、機敏な家康は全軍を撤収。秀吉がどうすることもできなかった様子が『三河物語』には綴られている。
「関白殿は小口、楽田でこのことをお聞きになり、急きょ竜泉寺まで押しだしたが、家康は目はしのきく武勇にたけた名将だったので、そのことを予想していて、テキパキと軍を展開させて、手早く小幡の城に引きあげたので、関白殿も攻撃の目標を失ってしまった」
しかし、ここから秀吉の知略が発揮される。総大将は家康ではなく、信雄だということに着目。信雄の属城をターゲットに攻め始めた。
5月2日には、竹鼻の東南の木曽川畔にある加賀野井城を攻めて、5日間で落としている。さらに奥城も落として、10日からは竹鼻城を包囲。竹鼻城の防備が堅く、なかなか落ちないと様子を見ると、水攻めに切り替えている。
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