秀吉に包囲され、竹鼻城の不破源六広綱は、家康に後詰を依頼している。家康はその返事として「関東の軍勢が近日中に向かう」と安心させながら「凶徒の敗北もまもなくだろう。壊滅させたいものだ」と過激な言葉で、勇気づけた。
しかし、秀吉が水攻めに移行して竹鼻城を追い詰めると、総大将の信雄が不破源六広綱あてに書状を送っている。何が書かれているかといえば、「是非に及ばざる事に候」。つまり、「仕方がない」といって、城を明け渡すように指示を出しているのだ。その後、広綱は秀吉方に屈服することになる。
家康の書状に比べても、信雄の書きぶりは淡々としており、どこか他人事のようだ。本来、書状とはそのようなものなのかもしれないが、戦う家臣からすれば、総大将として物足りなさを覚えたとしても不思議ではない。
一進一退の攻防戦が続くなか、徳川方は滝川一益に奪取された蟹江城を降伏させたりもしたが、戦の決着が着くことはなかった。結局のところ、秀吉が信雄と講和を取り結んだことで、家康も軍を引くほかなくなってしまう。
8カ月にわたる「小牧・長久手の戦い」は終わりを迎えて、家康は秀吉への人質として、次男の於義伊(結城秀康)を差し出している。家康と秀吉はいわゆる「冷戦状態」へと突入するのであった。
真田に敗戦した家康にさらなる悲劇
秀吉との戦いが始まったことで、家康が棚上げしていたのが「真田問題」である。家康は、旧武田領を巡って対立していた北条と和睦を成立させる。その条件は、旧武田領のうち甲斐と信濃をもらう代わりに、北条には上野を渡すというものだった。
しかし、武田の旧臣で家康に従属する真田昌幸は、上野国の沼田領を保有していた。そこで家康は、沼田領を北条に引き渡すように昌幸に命じたが、拒否されてしまう。替え地を用意することで説得しようとするも、昌幸が応じることはなかった。
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