NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第48回は、関ヶ原の戦い後に家康を悩ませたある事情について解説する。
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正月も気が休まらない大名たち
早いもので今年も残りわずか。なんとか仕事納めまでにやるべきことを終わらせて、年末年始くらいゆったり過ごしたいものである。
だが、戦国大名はそうはいなかった。ましてや、関ヶ原の戦いが終わって最初の正月となれば、今後を見据えて大名たちは、有力者のもとに挨拶に行かなければならない。
慶長6(1601)年1月1日。関ヶ原の戦いが慶長5(1600)年9月15日だから、それから4カ月も経っていないうちに迎えた新年である。
もし、現代人がタイムスリップして大名の立場になれば、徳川家康のもとに馳せ参じることだろう。だが、当時の大名たちは違った。真っ先に豊臣秀頼のもとに挨拶にうかがっており、家康が諸大名から挨拶を受けたのは、1月15日のことだった。
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