NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第49回は、宮中を震撼させた不祥事に対する家康の処理能力について解説する。
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会長の家康と社長の秀忠でタッグを組んだ
慶長8(1603)年、征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた徳川家康だったが、その2年後には、息子の秀忠に将軍の座を譲ってしまう。
体調に問題があったわけではない。なにしろ、家康はつねに健康に気を配っており、粗食を心がけたばかりか、健康のため自ら薬の調合まで行っている。「健康オタク」といってもよい。
家康は自身が健康なうちに将軍を息子に引き継ぐことで、存分にフォローアップしようと考えていたらしい。
かつて甲斐の武田信玄が、自らの死期を悟ってからようやく勝頼に本格的に政権を譲渡し、バタバタのなか、結果的には滅亡へと向かった。そんな武田家の末路を、見ていたからかもしれない。家康は早々と息子に将軍職を譲ると、自身は駿府に退き、大御所となっている。
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