会長の家康と社長の秀忠でタッグを組んだ
慶長8(1603)年、征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた徳川家康だったが、その2年後には、息子の秀忠に将軍の座を譲ってしまう。
体調に問題があったわけではない。なにしろ、家康はつねに健康に気を配っており、粗食を心がけたばかりか、健康のため自ら薬の調合まで行っている。「健康オタク」といってもよい。
家康は自身が健康なうちに将軍を息子に引き継ぐことで、存分にフォローアップしようと考えていたらしい。
かつて甲斐の武田信玄が、自らの死期を悟ってからようやく勝頼に本格的に政権を譲渡し、バタバタのなか、結果的には滅亡へと向かった。そんな武田家の末路を、見ていたからかもしれない。家康は早々と息子に将軍職を譲ると、自身は駿府に退き、大御所となっている。


















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