いわゆる「二元政治」であり、政治の実務は秀忠が行ったものの、政治の実権は依然として、家康が掌握することとなった。現代の会社経営でいえば、創業者が息子に社長を譲って、自らは会長として権勢を振るうという関係によく似ている。
家康と秀忠は、支配エリアの分担も行っている。会長の家康はいわば西日本の担当で東海・北陸から西の諸国を、社長の秀忠は東日本の担当として関東・奥羽の諸国を支配した。
とはいえ、軍事指揮権や外交権は、大御所の家康が握っている。さらに、秀忠のもとには、家康の信頼が厚い本多正信が送り込まれており、家康が駿府からしっかり秀忠を見張っていた。人材も明らかに家康の駿府城のほうに集められている。
新リーダーを立てた家康の配慮
そうして若社長を監視しながらも、家康なりに配慮もしていたようだ。越後の堀忠俊が父の堀秀治から領地を受け継ぐにあたって、家康はこんな意味の御内書を与えた。
「越後国のこと、将軍よりすでに申し渡されているが、満足している。将軍に忠義を尽くして勤め仕えてほしい」
このような御内書を家康が発給していることからも、諸大名としても秀忠からの許可だけでは、まだ心もとなく、家康からの確証がほしいと思っていたことがわかる。
それに対して家康は、「自分もちゃんと把握している」と伝えながらも、「現在の将軍である秀忠が許可しているのだから安心せよ」と言わんばかりに、秀忠のことを立てている。限定的ではあるものの、領地のお墨付きを与えるのは秀忠だと、念を押していることがこの御内書から読み取れるのだ。
また、慶長14(1609)年12月には、家康は自分の配下にある中国、西国、北陸の大名にも、関東に下って江戸で年を越すように指示。どの大名に対しても「秀忠に忠勤するべし」と暗に伝えた。
秀忠はそんな父、家康の気づかいにも驕ることなく、自分の立場をよくわきまえていた。家康の意向には、ほぼ100%従っているといってよい。
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