慶長14(1609)年に、後陽成天皇が宮中の不祥事に激怒するという事件が起きる。天下無双の美男子とも言われた、猪熊教利が女官らに片っ端から手を出し、そのうえ乱交パーティーまで主催した。
寛永年間に成立した『当代記』によると、怒りのあまりに後陽成天皇は駿府の家康に「関係者を厳しく斬罪にするように」と命じたという。
乱交パーティーに家康はどう対応したか
何とも情けない事案に、秀忠もあらためて将軍の職務が多岐にわたることを感じたかもしれない。そして父がどんな判断をするのか。自分が裁定する立場になったときに備えて、さぞ注目したことだろう。
家康がどう答えたかについては『御湯殿上日記』に記載されている。『御湯殿上日記』は天皇に近侍する女官により当番制で記されたもので、皇室史の史料としては第一に置かれるべきものとされている。
『御湯殿上日記』によると、京都所司代の板倉重宗などを通じて「天皇のお怒りはもっとも」と理解を示しながらも「後難もないようにご糾明することが大切です」とし、「厳しすぎる処分は波紋を広げる」と暗に釘を刺している。このあたりの差配はさすがだろう。
その後、京都所司代が駿府に使いに出されて、家康の意向を確認。首謀者の猪熊教利ら2名のみを斬罪にし、あとの関係者は流罪にとどめている。
この事件について、秀忠にも形式的に知らされていたが、その返事として秀忠は「今度のことはごもっともと思います」(『御湯殿上日記』)と使いを通して伝えるのみだった。まだ自分の範疇ではないと思ったのか、空気のような存在に徹している。
その一方で、秀忠の判断による大名への御内書も徐々に増えていく。居城が全焼した前田利長への見舞状を送ったり、琉球出兵に成功した薩摩藩島津家に賞賛を伝えたりと、秀忠が独自の動きをすることもあった。
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