さらに、慶長8(1603)年7月、家康が征夷大将軍になって半年が過ぎた頃には、秀頼と家康の孫である千姫が、大坂城にて祝言をあげることとなった。秀吉が存命中に決まった縁談とはいえ、きちんと履行されたのは、互いにまだ敵対する時期ではないという判断があったからだろう。
最後の大仕事にとりかかる
豊臣から徳川の世へ――。その移り変わりにあたっては、地道に段階を踏まざるをえなかったことが、家康の言動からよく伝わってくる。
そして、自身が将軍の座に就いてからもなお、警戒を緩めることはできなかった。早々と息子の秀忠に将軍の座を譲り、自らは大御所となり二元政治を展開することになる。
自分の死後、息子の秀忠や孫の家光が変わらず、諸大名を束ねられるように、盤石の体制を築く。そのために、家康は「豊臣家滅亡」という、最後の大仕事にとりかからなければならなかった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
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