家康が関ヶ原で勝利しても大きな苦悩抱えた事情 権力を持つ一方で、家康が気を遣ったある男

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だが、家康は「領地を保証する」というお墨付きである領知宛行状を出していない。大名の支配者は名目上、いまだ秀頼であり、家康はあくまでも、「幼い秀頼に代わって政務を執る」という体で論功行賞を行うほかなかったのである。

また、このときに没収された630万石あまりのうち、実に520万余りが、先に挙げたような豊臣系大名に与えられている。

彼らが家康とともに東軍として活躍したからこそだが、本隊を率いる徳川秀忠が、遅参することなく戦場に間に合っていれば、徳川系の大名への恩賞を厚くすることができた。家康が東軍の勝利にもかかわらず、戦場に間に合わなかった秀忠を叱責したのは、勝利したあとのことも考えたからだった。

なにしろ、少なくなったといえ、秀頼はまだ65万石の領地を持ち、そのうえ、大坂城と莫大の富を有している。はたして自分が亡くなったあと、息子の秀忠は秀頼に対抗しながら、諸大名たちをコントールすることができるのだろうか。

大河ドラマ どうする家康 豊臣秀頼
豊臣秀頼像(写真: 長兵衛 / PIXTA)

自分の立場は依然として豊臣政権下の大老にすぎないし、戦の主役は徳川系大名ではなく自分に味方した豊臣系大名に奪われてしまうし……。

天下分け目の大決戦で勝利したあとも、家康の心配は尽きなかった。それどころか、より大きな難題を抱えたといっても、過言ではないだろう。

ともに官位が上昇した「秀頼と秀忠」

家康は「秀頼の臣下」の立場からなんとか抜け出すために、策を講じている。

関ヶ原から3カ月後の慶長5(1600)年12月19日、九条兼孝の関白就任を奏上。秀吉、そして秀次へと続いた関白職の独占的世襲を途絶えさせている。自身が関白職に対して発言権を持つことを打ち出す格好となった。

しかし、将来的に秀頼の関白就任の可能性がなくなったわけではない。慶長6(1601)年3月、9才の秀頼は権大納言に任じられている。異例のスピードで昇格を果たしていることからも、秀頼が豊臣摂関家の当主として、影響力を失っていなかったことがわかる。

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