家康が関ヶ原で勝利しても大きな苦悩抱えた事情 権力を持つ一方で、家康が気を遣ったある男

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秀頼の昇進に対して、家康の動きもすばやかった。翌日には、前権中納言だった息子の秀忠を権大納言として現任公卿に復帰。これ以降、秀頼の官位が上昇するたびに、秀忠も昇進することになる。

そこには朝廷への家康の働きかけがあったことはいうまでもない。秀頼の母、淀殿からすれば、少しずつ権力が奪われていくような、危機感を持ったことだろう。

なんとか権勢を維持しようとする豊臣と、名実ともに権力を掌握しようとする徳川。天下人をめぐっての主導権争いは、むしろ関ヶ原の戦い後に展開された。

将軍に就任しても秀頼に気を遣っていた

家康が征夷大将軍の座に就くのは、慶長8(1603)年2月12日のこと。関ヶ原の戦いから2年の月日を要している。

将軍の就任にあたって、家康は朝廷からの要請だけではなく、僧の金地院崇伝(こんちいんすうでん)や、もともとは豊臣家に仕えた藤堂高虎から、「薦められた」というかたちで、将軍宣下を受けている。秀頼や豊臣系の大名のことを思うと、できるだけ「周囲に推された」というかたちを作りたかったのだろう。

しかし、家康が将軍に就いてもなお、秀頼との微妙な関係は続く。諸大名たちは依然として、豊臣系はもちろんのこと、外様大名すら秀頼に対して伺候の礼を取り続けた。毛利輝元にいたっては、国元に次のような書状を送っている。

「家康様が将軍になられ、秀頼様は関白へとおなりになったとのこと。おめでたいことにございます」

秀頼が関白になったという事実はないが、「秀頼が関白となり、豊臣家が政権の中心となる」という世は、周囲からみてもまだ十分にありうることだったらしい。周囲が重要視する秀頼を、家康もむげにはできなかった。征夷大将軍に就くと同時に、秀頼の朝廷官職は、大納言から内大臣へと引き上げられている。

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