なにしろ、秀頼はわずか9才にもかかわらず、すでに「従二位権中納言」という高位に就いている。公家たちもまずは秀頼に年頭の礼を行ってから、家康のもとへと向かった。
関ヶ原の戦い後も、豊臣恩顧の大名は、変わらず豊臣家のほうを重視したようだ。そのことは、田中吉政が愛宕山教学院に発給した文書からも、よく伝わってくる。慶長6(1601)年 1月14日、吉政は次の順番で祈願依頼を行った。
「秀頼様・政所様・御上様・内府様・中納言様・結城様・下野様・満千代様為御祈疇」
秀頼を筆頭に「政所様」(秀吉の正妻である寧々)、「御上様」(秀吉の側室で秀頼の母である淀殿)と続き、そのあとにようやく「内府様」と家康の名を挙げている。
田中吉政は織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の死後は家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍として戦って、戦功を上げている。そんな家康寄りの人物でさえも、秀頼へはもちろんのこと、寧々や淀殿への敬意を持ち続けていた。
こうした周囲の態度からも明らかなように、家康は関ヶ原の戦いに勝利したことで、天下人となったわけではない。「天下分け目の大決戦」と呼ばれながらも、もともとは、「自分勝手に振る舞う家康を排斥するべきだ」という石田三成らと、家康とそれを支持する勢力との戦い、つまり、「豊臣政権内の主導権争い」にすぎなかった。
「徳川軍」と「豊臣軍」の決戦が行われたわけではないので、家康は依然として、立場的には秀頼の下にならざるをえなかったのである。
論功行賞の裏にあった家康の苦悩
いや、そうはいっても関ヶ原の戦いのあと、家康は西軍の諸将から領地を没収し、東軍の諸将に論功行賞を行っているじゃないか――。
そんな異論があるかもしれない。確かに、関ヶ原の戦いのあと、敗れた石田三成、宇喜多秀家、小西行長、長宗我部盛親ら8人の大名が改易されている。そのほか、西軍に属した諸大名たちは、領地が没収され、厳封・減封が行われた。
その一方で、福島正則や小早川秀秋など東軍の勝利に貢献した大名には、恩賞が与えられている。肥後の加藤清正、筑前の黒田長政、筑後の田中吉政、土佐の山内一豊らのように、このときの加増で国持大名に昇格した者も少なくなかった。家康がすでに絶大な権力を誇っていたと考えるのも、無理はないかもしれない。
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