「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者
豊臣秀頼は1593年に大坂城で生まれました。母は茶々(淀殿)で、父・秀吉は57歳です。秀吉は先年、同じ茶々を母とする初めての実子・鶴松を失っていたため、同じことが起こることを極度に恐れていました。そこで、子の健康を願い行う当時の風習に沿って、いったん秀頼を大坂城の外に捨て置き、それを家臣の松浦重政が拾い上げる形をとります。
この秀頼の誕生は、秀吉にとって「思いもよらぬこと」。まさに望外の喜びでしたが、同時に深刻な問題も抱えました。それは後継者に指名していた甥の関白・豊臣秀次の扱いについてです。
秀吉は甥の秀次を抹殺
当初は秀次の娘と秀頼を婚約させ、秀次から秀頼への政権継承を考えますが、結局、秀次とその一族を謀反の罪に問い、虐殺します。秀頼が2歳のときのことです。
しかし秀吉と秀頼の年齢差を考えると、秀頼が成人するまでの政権を担う人物が必要となります。秀次を殺してしまった秀吉は、徳川家康を中心とする五大老と、石田三成らの五奉行による合議制の政権運営に舵を切りました。しかし、この目論見は秀吉の死の直後からゆらぎます。秀頼が5歳のときのことでした。
まず家康が政権掌握に動き出し、それに対抗する形で三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こります。この戦いに家康は勝利し、事実上の国内最高権力者の座につきました。
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