「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者

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このときの秀頼の感想など、彼の考えを窺い知れるものは何も残っていません。家康は秀頼の器量を認め、かつ恐れたという話もありますが、これも事実かはわかりません。ただ秀頼が、非常に礼儀正しく家康に接したことだけは間違いないようです。

家康が恐れたのは、秀頼の資質よりも人気だったのではないでしょうか。秀頼への京の人々による熱狂に触れ、家康は初めて秀頼の存在の危険性を認識したものと思われます。秀頼がここまで表舞台に出てこなかったことが彼の神秘性を高めたのかもしれません。以降、家康は周到に豊臣家排除を開始しました。

豊臣滅亡までの家康の策略

家康は、まず豊臣家の財力を削ぐことを考えます。豊臣家は所領を65万石に減らされたとはいえ、大坂城には秀吉が残した莫大な量の金銀がありました。

家康は豊臣家に、秀吉が建立したものの慶長伏見地震で倒壊した方広寺大仏殿の再建をもちかけます。その莫大な費用は豊臣家が負担し、その実施にあたっては徳川家も手伝うというものでした。当然、豊臣家の負担は大変なものになります。

この工事はわずか2年という異例の早さで完了しました。そして方広寺大仏殿の再建に際して納める梵鐘の銘文について問題が発生します。いわゆる方広寺鐘銘事件です。

ほぼ言いがかりに近い、この問題で、家康は「秀頼の江戸への参勤」「淀殿の人質」「大坂城からの国替え」という要求を行います。豊臣家にとっては屈辱的な条件ですが、もしもこのとき、この条件を受け入れていれば、豊臣家は少なくとも命脈をつないだ可能性は高いでしょう。

なぜなら家康自身、ほぼこれと同じ屈辱を秀吉から与えられたものの、家康は受け入れたからです。しかし豊臣家はこれを受け入れず、徳川との全面対決に向かっていきます。

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