「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者

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1614年、ついに家康は大坂攻めを決定。いわゆる大坂冬の陣が始まります。秀頼は22歳になっていました。この戦いは、真田信繁(幸村)の活躍もあり、大坂方が予想を上回る戦いをします。

そのうち、両者とも兵糧が尽き始めて継戦が難しくなったこともあり、和議を結ぶことに。このとき徳川方は、和議にあった外堀を埋めるという条件を破り、内堀まで埋めてしまいます。これで大坂城は城としての機能を果たせなくなりました。

この大坂冬の陣においてはさまざまな逸話が残っているのですが、不思議なのは総大将である秀頼の逸話がほとんど残っていないことです。大坂方の最終意思決定者として逸話が残るのは、母である淀殿ばかりでした。

秀頼は結局、出陣もできず

身長2メートル近く、体重は161キロという並外れた巨漢だったと言われる秀頼は、その体躯だけ見れば豪傑ともいえる大将です。その彼の言葉や行動が何も残っていないというのは極めて不思議といえます。

翌年の1615年に、国替えや牢人の追放を拒否して埋め立てられた堀を掘り返し始めた豊臣家に、家康は再出兵します。大坂夏の陣です。

野外戦で活路を見出そうとした豊臣方でしたが、奮戦むなしく敗れ、秀頼は母である淀殿とともに自害します。

享年23歳。

この夏の陣においても秀頼は目立った動きをすることなく、出陣することもなく、この世から姿を消しました。

豊臣秀頼 淀君 墓碑
豊臣秀頼、淀君ら自刃の地の碑(写真:dtgw60/PIXTA)

まるで蜃気楼のような存在で生涯を終えた秀頼は、逆に、情報が何もないがゆえに、われわれにいろいろな想像を与える不思議な存在でした。

秀吉が辞世に残した

「浪速のことも夢のまた夢」

これは、まるで秀頼のことを指しているようでもあります。

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眞邊 明人 脚本家、演出家

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まなべ あきひと / Akihito Manabe

1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。尊敬する作家は柴田錬三郎。2019年7月には日テレHRアカデミアの理事に就任。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースの他、最近では演劇、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出をつとめる。

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