「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者
秀頼は、朝廷においては、摂関家の家格を維持する公家としては昇進を続けていました。これに対し家康は、それまでうやむやにしていた秀頼との関係を正式にはっきりさせるため、高台院(寧々)を通じて秀頼に臣下の礼をとるよう要求します。秀頼13歳のときのできごとです。
これには秀頼の母・淀殿が激しく反発して立ち消えに。家康は、大坂に6男の松平忠輝を送って融和を図りました。この時点では、まだ家康は豊臣家に一定の配慮を行っていたことがわかります。
家康は偉丈夫になった秀頼と対面
そして、ついに家康と秀頼が対面するときがやってきます。家康が臣下の礼を要求してから6年後、秀頼18歳のときのことです。2人は二条城で対面します。この対面は、加藤清正や浅野幸長ら豊臣恩顧の諸将の働きかけで実現しました。
これを豊臣家の臣従と見るか、なお豊臣家が徳川家に対等の立場を示したものか、その意義への見解は分かれますが、仲介した加藤清正らの本音は、ここでおとなしく秀頼が家康に臣従することを願ったのではないかと思われます。
かつて家康は、ひざを屈して上洛し秀吉に臣従しました。そのことを知っている清正らにとっては、淀殿がなんと言おうとも秀頼に、その器量を期待したように私は思います。
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