「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者

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関ヶ原の戦いの直後、家康は秀頼の補佐役として、関ヶ原の戦いの論功行賞を行いました。そこで家康は豊臣家の直轄の土地を勝手に分け与え、自身にも大幅な加増を行います。これによって豊臣家は220万石から65万石、徳川家は400万石になりました。

こうして徳川家が領地のうえでも豊臣家を圧倒し、事実上、豊臣家は一大名の地位に落とされました。秀頼が7歳のときの出来事です。

さらに家康は、征夷大将軍の官位について武家の棟梁となり、江戸に幕府を開きます。秀頼が10歳のときのことです。

NHK大河ドラマ『どうする家康』 北川景子 茶々(淀殿)
茶々(淀殿)は、秀頼が臣下の礼をとることを拒みました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

家康が天下に政権交代を示す

これは、そもそも秀吉が織田家から天下を簒奪した手法と同じ手法です。

秀吉は自身を関白の地位につけることで、官位の権威をもって織田家の政権を公的に奪いました。家康はそれにならって、征夷大将軍という武家の棟梁としての公的な立場をもって政権交代を天下に示そうとしたと思われます。

その一方で家康は秀吉の遺言に従い、孫娘である7歳の千姫を秀頼の正室として婚姻させ、大坂に送ることを決めました。この時点では、家康は秀頼に対して融和的な姿勢を見せており、秀吉が信長の嫡孫である織田秀信(三法師)を岐阜城主とし、豊臣政権下の一大名として遇したのと同じ考えでしょう。

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