関ヶ原参戦できず「西軍最強」と呼ばれた男の悲劇 なぜ参戦できなかったのか?その後の人生とは

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宗茂は、石田三成率いる西軍に味方していたが、関ヶ原の戦いには駆けつけることができなかった。もし、宗茂が間に合っていれば、東軍の勝利も危うかったはず……という声まで上がっている。

そんな西軍が待望した立花宗茂とは、いったい、どんな人物だったのだろうか。

立花宗茂は永禄10(1567)年、豊後国国東(くにさき)郡の筧で生まれた。現在の大分県豊後高田市付近にあたる。ただし、生まれについては、永禄12(1569)年に生まれたという説もあれば、出生地は岩屋城で、現在の福岡県太宰府市だったという説もある。

立花宗茂の幼名は「千熊丸」(せんくままる)とされ、大友家の重臣で、名将として知られていた吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれた。

さらに、紹運の父、つまり、宗茂から見れば祖父にあたるのが吉弘鑑理で、大友義鑑と宗麟の2代にわたって仕えている。鑑理は宗麟の側近として軍事や政治など多方面で活躍。臼杵鑑速や吉岡長増らと共に豊後の「三老」に列せられたことで知られる。

そんな勇猛な祖父や父の血を継いだのだろう。宗茂は生まれつき強健な子どもだった。6~7才から武芸を好み、ほかの子どもを素早く倒したという逸話も残っている。

12才にして勇猛ながらもクレバーだった

12才のときのことだ。宗茂が鷹を手にもって、同年代の友達と外を駆け回っていると、いきなり猛犬が襲いかかってきた。

すると、宗茂は少しも臆することなく、太刀を抜いて飛び出していき、猛犬とすれ違いざまに、峰打ちによって撃退してしまった。さぞ、父の紹運も鼻が高かっただろう、と思いきや、息子にこう説教したという。

「武士たる者 、一度、刀を抜いたからには、相手を仕留めるべきである。なぜ、棟打ちなどして身を防ぎ、犬を斬り殺さなかったのか」

いかにも猛将らしい父の叱責だが、宗茂は動じることなく「太刀というものは、敵を斬るものだと承っています」と言ってほほ笑んだ。犬は敵ではないので、むやみに殺生するべきではない、と宗茂は言いたかったらしい。

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