三成と戦うにあたって「豊臣恩顧の大名も自分に味方している」ということは、非常に重要なメッセージとなる。政宗に対して、「私についたほうがよいぞ」と暗に示すのに、これ以上の方法はないだろう。
約1カ月も江戸城にこもったワケ
8月5日には江戸に戻った家康だったが、9月1日の出陣まで、実に約1カ月も江戸城にとどまっている。
その一方で、3万の徳川主力軍は息子の秀忠に任せて、上方へと向かわせた。豊臣武将たちが裏切ることなく合流して、ともに三成と戦うかどうかを、江戸で様子を見ていたのだろう。家康としては、小山評定で決まったとおりに、武将たちが動いてくれるかどうかを確認したかったのだと思われる。
そうして豊臣恩顧の大名たちの本心を見極めながら、家康はこの間に、全国の諸大名に書状を書いて送っている。作成自体は右筆が行っているので、頭のなかで考えた文面のニュアンスを細かく伝えながら、書状を完成させていったのだろう。
言うまでもなく、書状はただ出せばいいというものではない。現代社会においても、ほかの人との使いまわしであろうと思われる文面には、何ら心は動かされないだろう。
その点、家康が出した書状は、文面から相手の立場に立った心遣いが感じられる。特に細川忠興、加藤清正などの豊臣恩顧の大名には、「もし勝利したときには恩賞として、この国を与えよう」といった見返りが明示されていた。
相手が知りたいことや、不安に思うだろうことを、先取りして伝えておけば「あなたの状況はよく理解していますよ」というメッセージにもなり、受け取るほうからすれば、何とも頼もしい。そんな細やかさがあったからこそ、家康は「関ヶ原の戦い」において、勝利をつかむことができたのである。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
桑田忠親『家康の手紙』 (文春文庫)
吉本健二『戦国武将からの手紙 乱世を生きた男たちの素顔』 (学研M文庫)
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