福島正則の家康支持の発言はもちろん重要でしたが、多くの武将が正則と同じ考えでもありました。この正則よりも重要な発言をした武将がいます。
なんと自城を差し出した山内一豊
それが山内一豊です。一豊は秀吉配下の古参の武将で、このとき55歳でした。遠江掛川城主であった一豊は、小山評定に際して自身の掛川城を差し出すことを申し出たのです。この案は、そもそも一豊と旧知の堀尾吉晴のものであったのを一豊が自分の案のように申し出たという説もありますが、この申し出は激しく家康を感動させました。
これは、とんでもないことだったのです。城を差し出すということは、単に家康に味方するというだけでなく、いわば家康に臣従するという表明でもありました。一豊のこの申し出に東海道の他の諸将も追従します。彼らのほとんどは秀吉恩顧の諸将であり、これは事実上、家康が彼らの盟主となったことを示しました。
彼らは関ヶ原の戦いのあと、さかんに「新恩」という言葉で家康への忠誠を表現します。豊臣家には旧恩があるが、それと同等に家康には新恩があり、家康への忠誠は武将として当然だという論です。
このときの一豊の発言は、家康に臣従することで家康から恩を受けるという理屈を成立させたのです。これによって家康率いる東軍は一枚岩となり、この後、統制のとれた動きを取ります。
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