まだ20代だった信長の後継者を襲う悲劇的な最期 「織田秀信」天下人に翻弄され関ヶ原の前に降る

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秀吉が亡くなり家康の権力が増していくなか、謀反のおそれありとして上杉景勝の征伐が決定します。このとき秀信にも出陣命令が下りましたが、準備に手間取って出陣が遅れました。その間に大坂で三成が挙兵し、家康討伐を宣言。秀信に誘いの使者が送られてきます。

そこには、勝てば尾張・美濃の2カ国を与えるという条件が記されていました。秀信は、この誘いを受けて西軍に参加します。尾張・美濃は織田家にとって重要な地であり、その恩賞が決め手になったことが想定されますが、秀信の真意は定かではありません。

家康より三成のほうが近い存在だった

豊臣政権下で成長した秀信にとっては、豊臣家に対して「織田家を簒奪した者」という感覚はなかったのでしょう。加えて家康と秀信に親しい接点があった様子もなく、秀信にとっては三成のほうが近しい存在だったのかもしれません。

家康は小牧長久手の戦いで織田信雄に裏切られて以来、織田家とは距離をとっていたようです。もちろん年若い秀信の考えより重臣たちの意見のほうが重かったでしょうから、秀信が主体的に西軍に味方をしたいと思ったかはわかりませんが、いずれにせよ秀信のいる岐阜城は、家康の東軍に対面する最前線でした。

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