秀吉は正式に、信雄に織田家の家督を継がせます。ここで三法師の扱いは、織田一族のひとりという立場に変わりました。秀吉は関白に就任し、公的に天下をおさめる名分を得て姓も豊臣に改め、朝廷を背景にした政権を築きます。
秀吉は朝廷の官位を政権内の序列に当てはめましたが、この序列でいえば三法師は、信長の遺児で秀吉の養子になっていた豊臣秀勝の下でした。
岐阜中納言となった三法師
岐阜を領していた信長の遺児・豊臣秀勝が亡くなると、秀吉は元服して名を織田秀信と改めた三法師に継がせます。岐阜城主となった秀信は、家臣団の再編や楽市楽座、鵜飼いの保護など、祖父や父と同じく安定した領地運営を行いました。特に水害対策に力を入れ、年貢を苛烈に取り立てることもなかったため、秀信の治世時には大きな一揆などは起きませんでした。治世においては有能な領主だったといえるでしょう。
また、秀信はキリスト教に理解があり、特に宣教師オルガンティノを尊敬し、弟・秀則とともに入信したという記録も残っています。その一方で寺社の保護も行っており、宗教に関しては寛容だったようです。
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