ここでの東軍の主力・池田輝政と福島正則が岐阜に侵攻してきたのは8月22日。秀信は、これを木曽川沿いで迎え撃ちました。しかし多勢に無勢で敗れ、岐阜城まで退却。籠城して西軍の援軍を要請します。
しかし三成ら西軍首脳は、一度は援軍の派遣を決めるものの結局、取りやめました。こうして孤立した岐阜城は翌日、攻め手の池田輝政の説得で降伏開城。わずか2日での敗北だったことから、秀信の武将としての能力には疑問を抱かれがちです。
しかし、これは、そもそもあまりにも大きな戦力差が前提としてあり、さらに池田輝政がもともと岐阜城主だったため、その攻略法を熟知していました。そう考えると秀信に同情すべき点は多々あるでしょう。もしも三成らが夜陰に乗じて電撃的に木曽川に進行し、夜襲に成功していたら歴史はひっくり返っていたかもしれません。こうした発想をもとに上梓したのが『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』です。
なお秀信は開城にあたり、生き残った家臣のために感状(その家臣の働きを示したもの)を認めて家臣の再就職にまで気を配ったとあります。これは単なる世間知らずの貴族大名ではないことを示すエピソードです。
織田秀信の悲劇的な最期
秀信は開城にあたり切腹する覚悟でしたが、池田輝政が説得してやめさせ、さらに東軍の中で秀信の死罪を問う意見が出ると、今度は福島正則が「自分の手柄と引き換えに命を助けてやってほしい」と家康に直訴します。
秀信は命を助けられて高野山に送られることになりましたが、これが不幸でした。高野山はかつて信長が攻めたことがあり、そのことを恨んでいた高野山は徹底的に秀信を迫害します。秀信がキリシタンに入信していたこともあるのでしょうが、結果的に秀信は高野山を追放され、その後、病死したとされています。
享年26歳。しかし、この病死は表向きであり、実際は自害したとされる説もあります。
高野山での日々は、秀信にとっては屈辱にまみれたものでした。家康は当然、信長が高野山を攻めたことを知っていたでしょうし、その高野山の感情も充分わかっていたと思われます。そのうえで助命した秀信を高野山に送ったのだとしたら……。家康の冷酷さを垣間見たような気がします。
関ヶ原の戦いで、ある意味もっとも悲劇的な最期を遂げた武将は秀信なのかもしれません。
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