「石川数正」全てを抱え家康の下を去る53歳の決断 外交に優れた側近が出奔し家を取り潰されるまで

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秀吉は数正に河内8万石を与えます。

数正は秀吉の下で冷遇を受けたという見方もありますが、綺羅星の如き武勇を誇る秀吉麾下の武将と比べても決して低い待遇ではありません。

秀吉亡き後、関ヶ原の合戦へ

また秀吉は自分の諱を与えます。

これにより数正は名を吉輝に改めます。これは数正にとって、家康からの真の訣別だったのかもしれません。秀吉の徳川攻めは紆余曲折あって頓挫し、家康は秀吉に臣従します。数正としては当初、願った通りになりました。

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家康が江戸に転封されると、数正はさらに加増され、松本10万石を与えられます。

秀吉からの高い評価がうかがえる好待遇です。

そして数正は1593年、61歳で肥前にて、その生涯を閉じました。

秀吉は数正の子どもたちに領地を引き続き与えます。秀吉亡き後、数正の家督を継いだ康長は、関ヶ原の合戦のおりに東軍についたことで徳川陣営とみなされます。

しかし、その扱いは外様大名であり、徳川家への帰参とはみなされませんでした。その後、親戚であった大久保長安の事件に連座し、石川家は家康によって取り潰されます。

家康の石川家に対する心情は、どんなものだったのでしょうか。

それを示すものは、どこにも残されてはいません。

眞邊 明人 脚本家、演出家

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まなべ あきひと / Akihito Manabe

1968年生まれ。同志社大学文学部卒。大日本印刷、吉本興業を経て独立。独自のコミュニケーションスキルを開発・体系化し、政治家のスピーチ指導や、一部上場企業を中心に年間100本近くのビジネス研修、組織改革プロジェクトに携わる。研修でのビジネスケーススタディを歴史の事象に喩えた話が人気を博す。尊敬する作家は柴田錬三郎。2019年7月には日テレHRアカデミアの理事に就任。また、演出家としてテレビ番組のプロデュースの他、最近では演劇、ロック、ダンス、プロレスを融合した「魔界」の脚本、総合演出をつとめる。

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