秀吉は数正に河内8万石を与えます。
数正は秀吉の下で冷遇を受けたという見方もありますが、綺羅星の如き武勇を誇る秀吉麾下の武将と比べても決して低い待遇ではありません。
秀吉亡き後、関ヶ原の合戦へ
また秀吉は自分の諱を与えます。
これにより数正は名を吉輝に改めます。これは数正にとって、家康からの真の訣別だったのかもしれません。秀吉の徳川攻めは紆余曲折あって頓挫し、家康は秀吉に臣従します。数正としては当初、願った通りになりました。
家康が江戸に転封されると、数正はさらに加増され、松本10万石を与えられます。
秀吉からの高い評価がうかがえる好待遇です。
そして数正は1593年、61歳で肥前にて、その生涯を閉じました。
秀吉は数正の子どもたちに領地を引き続き与えます。秀吉亡き後、数正の家督を継いだ康長は、関ヶ原の合戦のおりに東軍についたことで徳川陣営とみなされます。
しかし、その扱いは外様大名であり、徳川家への帰参とはみなされませんでした。その後、親戚であった大久保長安の事件に連座し、石川家は家康によって取り潰されます。
家康の石川家に対する心情は、どんなものだったのでしょうか。
それを示すものは、どこにも残されてはいません。
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