織田信雄は、織田信長の次男として生まれました。本能寺の変で父・信長と同じく自死した嫡男・信忠が兄で、妹には松平信康の妻だった五徳、異母弟には信孝がいます。
信長は早くから嫡男・信忠を後継者に定めていたため、信雄は11歳の時に伊勢・北畠家に養子に出され、17歳で北畠家の家督を継ぎました。三男の信孝も10歳のとき神戸家に養子に出されていたことを考えると、後継者争いが起こらないように信長は早くから次男・三男を他家に出していたのでしょう。
長男・信忠のサポート役が犯した大失態
北畠家の家督を継いだ信雄ですが、その実権は先先代の具教が握っていました。具教は、織田家に恭順しておらず、武田と密約をするなど反織田の姿勢を鮮明にします。このことを憂慮した信長は信雄(この時は信意と名乗っていました)に命じ、具教および北畠家抹殺を行いました(三瀬の変)。
さらにはこれを主導した重臣の津田一安も殺し、北畠の簒奪を完成させます。しかし、この信長・信雄親子の行いは、北畠家の所領である南伊勢に禍根を残しました。北畠家の簒奪後、信雄は兄・信忠と共に紀州攻め・石山本願寺攻めに従軍します。織田家では兄・信忠のサポート役に位置付けられていたようです。
しかし、そんな信雄が大失態を犯すことに。
21歳のとき信長に無断で伊賀に、およそ1万の兵で攻め込みました。第一次天正伊賀の乱です。当時、伊賀は郷士衆による共同統治でしたが、彼らのゲリラ戦の前に信雄軍は大敗を喫します。信長はこの敗戦に激怒し、信雄に対して「親子の縁を切る」と書いた書状を送りました。
信長としては、息子が勝手に兵を出した挙げ句、大名ですらない寡兵の伊賀郷士に敗れるなどはあってはならない許し難きことです。ただ、この件で信雄が罰せられることはなく、翌年、信長が主導する形で2度目の伊賀攻めを行います。第二次天正伊賀の乱です。
信長は信雄の不名誉を晴らすべく、信雄を総大将に据えますが、その配下に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら織田家中の歴戦の武将を従軍させ、伊賀をまさに根絶やしにするような激しい攻撃を加え制圧しました。
信雄は、その功績で伊賀の3分の2を領有することになります。しかし、この残酷な戦いは伊賀の者に深い恨みを抱かせました。信雄は伊勢においても伊賀においても決して安定した状況をつくり上げることはできなかったのです。
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