秀吉が唐入り(明の征服)の構想を抱いたとされる資料は、1585年以降に現れました。関白就任後の書状に「日本国ことは申すにおよばず唐国まで仰せ付けられ候」と書き残されています。この秀吉の構想は、信長の影響であると言われていますが、それを示すものはなにも残されていません。
ただ、信長はポルトガルをはじめとする西欧の侵略国家との接触が多く、世界の強国は自国を制圧すると、そのエネルギーを使う場を国外に求めて、領土を広げるという常識を理解していました。したがって、自然と西欧の侵略思考を身に付けていたとしても不思議ではないでしょう。
1586年には、イエズス会のガスパール・コエリョに「秀長に日本を譲り、自分は唐国を治める」といった趣旨の発言をしています。翌年になると、唐入りに関する秀吉の発言はさらに増えました。このころ秀吉は九州征伐を行っていますから、天下統一を前にして、すでに唐入りを決定していたことが窺えます。
「唐入り」は半狂乱の秀吉によるもの?
秀吉の唐入りについては、彼が晩年となり思考が衰え、そこに愛息の鶴松の死が重なり、なかば狂乱の状態で行われたという説があります。しかし秀吉の発言を見るかぎり、そのような突発的な発想ではなく、唐入りは念入りに計画されていたと見たほうがいいでしょう。
では、なぜ秀吉は、このようなことを考えたのでしょうか。
それを証明するものはありませんが、すでに信長の構想にあったような気がします。もちろん当時の状況から、信長がどこまで本気だったかはわかりませんが、信長の後継を自認する秀吉が、その実現を目指すことは自然な流れであったのかもしれません。
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